「呪い」 の由来
皆さんは目に見えない力を信じますか?
私は今のところ信じています。
今のところというのは、将来の体験でそれが揺らぐかもしれないという疑念が少しあるからです。
ただそれが宗教であるとするならば、数千年に渡ってたくさんの先人たちが信じ、そして伝えてきたという現実だけでも十分信じる価値があるとも思います。
信じるか信じないかというのは「こころ」の問題でもあり、信心を持たないということは、私には寂しいことにも見えます。
現代人はそういった意味では心の貧しい時代に突入しているのかもしれません。
それは進みすぎた科学ですべてが解決できるといった考えを持つ創造性の乏しい人が増えたせいかもしれません。
そのような人々にありがちなのが、いざ科学で解決できない事象にであったときに取りみだすといった状況。
完全に方向を見失いパニックに陥るのです。
昔の人はそんなときに心の平穏を呼びもどすために祈りを捧げてきたわけですが、皆さんには迷った心のよりどころがありますか?
■「呪い」の由来
呪とは元々「祝」と同様に、祭壇の前で神に祈りをささげるという意味で用いられたといいます。
「兄」という字は兄弟ではなく、頭の大きい人を表しているのです。
兄は祭壇の前で祈りをささげる頭の大きい人、つまり神主あるいは祭主を意味します。
口偏は、人が神前で祈りを唱えている状況ということです。
幸いを祈る場合には、「祝」を用いますがこの場合の「ネ」は祭壇などを表しているそうです。
示す編の「示」は日本で言えばお供え物をのせる三宝を意味したり神を祀る場所そのものを意味しているということです。
神棚の前に跪いている姿や神に供物を捧げる姿が「祝」となったのです。
祭壇に跪く姿を「祝」とし、口から発せられる祝詞そのものが「呪」と考えると分かりやすいかもしれません。
それが「呪」は敵に打ち勝つための言葉となり、やがて人を傷つける言葉、即ち今のような「呪」となって分離されていったのです。
その成り立ちは同じところからきていますが、いつしか「祝」は良いことを「呪」は悪いことを祈るといったように使い分けられるようになりました。
ちなみに「おまじない」も「お呪い」というように「呪」の漢字が用いられているようです。
こちらの意味は、神仏その他の神秘的な力によって災いを起こしたり、逃れたりすること。
このような例を見ると、不思議なものですね。
我々は「おまじない」といえばどちらかといえばいいほうに物事が運ぶイメージを持っていませんか?
私は最近、「呪い」の体験をしました。
私をよく思っていない人が次々に不幸に見舞われたのです。
これには驚きましたが、いざそうなってみると自分もあまりいい思いはしないもののようです。
それで自分の気持ちは晴れるのだろうか?
自分は、それで晴れるような心の狭い人間なのだろうか?
自問自答が続きます。
口にだすと、その言葉は独り歩きすることがあるようです。
呪うのも祝うのも、祈りから始まります。
もしかしたら祈り方を間違えた人が、「呪い」の現在の意味を生み出したのかもしれませんね。
もちろん私もまだまだその罪深い一人のようです。
ほんとにあった!呪いのビデオ special 5 [DVD]
キャサリン - 2015年11月20日, 7:33 PM
人を呪いたくは、ありません。
キャサリン - 2015年11月20日, 7:33 PM
呪いたくは、ありません。
アッビス - 2021年1月13日, 9:52 AM
なるほど