「真剣(しんけん)」 の由来

世の中に蔓延するいい加減という風潮に一石を投じる。
いつ頃から日本人はこれほどいい加減になってしまったのだろう。
いつの時代からかといえば、やはり命の危険をそれほど感じなくなった頃からだろうか。
それはごく最近では戦後であると思われる。
平和という気運が人々を緩ませたのは間違いないが、それは決して悪いことではないだろう。

もう一つのいつ頃か?は成長段階での問題。
真面目に取り組むことをダサいと言い出すのはいつ頃かということ。
自分の頃はやはり第二思春期である、中学校の頃からだった。
バカで無駄で一途な小6の男の子たちがその態度を一変する。
勉強もスポーツも遊びも一生懸命取り組むということを恥ずかしいと感じる。
それは服装にもあらわれ、ボタンを留めないとかズボンやスカートをずらすとか・・・
流行やオシャレとは言えない反抗姿勢からくる服装の変化。
そこで真面目にやれとか、ちゃんとしろなどと親が叱ると余計離れてゆく微妙なお年頃。
だが、そのいわゆる反抗期も年々下がってきている気がするのは私だけだろうか?

「真剣(しんけん)」の由来

私の持論の一つに集中力が全てというものがある。
集中はその本気度に比例する。だからいい加減に取り組むならやらない方がまし。
極端だが、それが私のやり方。
だから自らも、ダラダラやるというのが嫌いだし、無駄なことは極力排除する。
遊ぶなら思いっきり遊び、働くときは真面目に、勉強は一生懸命。
そこに楽しみを覚えるように取り組めば必ず成果が得られる・・・私はそう思う。
だから人より疲れるのだろうか・・・まぁそれもいたしかたなし。

「真剣」という言葉が何を示すのかと言えば、それはまさに真剣勝負。
刀剣での勝負をさす。木刀や竹刀ではなく、真の剣だから「真剣」なのだ。
一瞬でも油断したら命がない。それくらい真面目にやる事から転じてまじめに物事に対するさまや、本気で物事に取り組むさまを表すようになったのだ。
もちろん経験はないが、一つ間違えば命を落とすような真剣勝負。
その本気度は計り知れない。

ワールドカップの決勝を見ながら思ったのだが、
やはり生きるか死ぬかの世界に住む人間の強さは尋常じゃない。
技術やスピードで何とかなるというレベルではない。
正直私も日本はそこそこまで進むと考えていたが、最後の「やるかやられるか」の境地が足りなかったことを感じた。

主力の選手はそれなりのクラブに所属して、そこで満足してしまっている気がする。
世界一のメッシの敗退後の落ち込み方がそれを物語っている。
彼は世界一でありながらアルゼンチンでは人気がない。
それは代表での結果を出せない状況が続いているからだ。
世界一でありながら、国に帰れば罵られることもある。叩かれることも確実。
だがそれ以上にメッシ自身が世界一になりたいという気持ちが誰よりも強かったのだろう。
技術、スピード、選手に恵まれた国に更にハングリー精神が加わる。
アルゼンチンの財政状況から言っても、国民の期待を一身に受けた今回の敗退のもたらす影響は計り知れない。

なでしこジャパンが優勝して三年ほどが経つ。やはり震災という修羅場を潜り抜けた選手たちの精神はそれまでとは比べることもできないほどの真剣だったことだろう。
私自身も彼女たちの活躍で、一時でもあの災害を忘れることができた。
スポーツが全てではないが、戦争以外でお互いを知るにはいい機会であることに間違いはない。

違いを知り、相手を知り、理解する。どちらが強いかは二の次だが、勝者が精神をともなう肉体だけの真剣勝負に勝利したという事実は、何にも勝るものはないと私は思う。
大国アメリカが怖れていたのはやはり日本の精神性。
だが、当時のそのままの精神性を日本人が持ったら自国民すら恐ろしいと思うのは私も一緒だ。




著者: tossie
居住地域:北関東 年齢:70年代生まれ 趣味:釣り、散策 言葉の由来を調べています。言語学者とか研究家ではありません。 ただの一般人です。記事は仕事の合間に書いてます。 プロフィール詳細 Twitterでフォロー

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