「やせ我慢」 の由来
森山中の大島さんの顔写真が週刊誌の見出しに掲載されていました。
タイトルはずばり、「コブタちゃん」になりませんか?-深夜番組の本音トークに支持急増-
中身は確認していないのですが、おそらくダイエットとかスタイルとか気にしてストレスをためるより、いっそのことカミングアウト状態で食べるだけ食べて可愛らしい子豚ちゃんを皆で目指しませんか?といったお誘いの中身と推測されます。
確かに、バラエティ番組での森山中は輝いてます。
浴衣姿で世界中を旅し、ゲテモノ食いからバンジーなどのアクティビティまでこなします。
その軽やかでハツラツとした姿は、我々に人生がいかに素晴らしいかを教えてくれているかのようです。
身近に、食べずに悩んで欝や過食に悩んでいる人がいたら、「こんな容姿でも人生を前向きに捉えて、逆にその個性を存分に発揮して謳歌している人たちもいるんだよ。」と教えてあげたいほどです。(いくらなんでも少し言いすぎ?)
その記事に感心しながら横に目を移すと、これまた面白い見出しが追加されています。
「ヤセガマン」はもうしない。
んんん???
納得させられながらも、疑問が沸いてきたのです。
「やせ我慢」の語源ってもしかしたら、こういった状況からきているの?
■「やせ我慢」とは
「痩せ我慢を張る」とは、無理に我慢して堪え忍ぶとか、必要のない我慢をすること。
苦痛や欲望などをじっと耐えて平気な顔を装ったり、負け惜しみをして人の同情や援助を拒否したりすることも言います。
こういったことから導き出すと、痩せている太っているはあまり関係ないようにみえます。
しかし、「痩せ我慢は貧から起こる」と言う言葉があるそうで、これは痩せ我慢までして苦しみや不自由を耐えるのも、貧乏が原因であるという意味です。
生活に困らなければ無理に我慢することはないと・・・
確かに、着るもの食べるもの住むところ移動するもの、我々の生活はある程度の経済があった上で成り立っています。
お金が無限にあればそういった我慢をすることは何一つないかもしれません。
やせ我慢することのたとえとして、「武士は食わねど高楊枝」ということわざがあります。
これは、貧しい境遇にあっても貧しさを表に出さず気位を高く持って生きるべきだということです。
痩せても枯れても頑張り虚勢を張った「笠張り貧乏武士」の様子からきています。
武士は一般的に位は高かったと考えられますが、その種類も幅も様々だったので食うのに困る武士もいたのです。
そんな時でも高楊枝で満腹のフリをしていたのです。
物乞いをしたり人に媚びたりすることなく、いかなる場合でもその地位の高さだけのプライドを保てということなのでしょう。
そこから「やせ我慢」はきたといった考え方があるそうですが、確かに納得ですね。
やはり太った人にはやせ我慢と言う言葉は似合わないようです。
今更ながら、新聞広告に笑いと共に疑問を抱いた私の考えは正しかったようです。
太った方が「ヤセガマン」を用いると失笑がこぼれます。
もちろん今日取り上げた記事の見出しはそれを狙っているわけで、私は見事そこにハマってしまったようです。
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