「三國連太郎(みくに れんたろう)」 の由来
人の一生とはわからないものである。
三國連太郎さんがお亡くなりになった。
享年91歳。正直その年齢に驚いた。
近所、身内、その他の場所で出会った何人かの同年代の皆さんの顔を浮かべてみる。
おそらく戦争も体験しているはずだ。
シベリアに抑留されていた人、南国で命を落とした人、何とか命を繋いで帰国した人、まさに明暗を分けた世代のはずだ。
その人生に興味が沸いた。
■三國連太郎の人生
母親は16歳で一家が離散し広島県呉市の海軍軍人の家に女中奉公に出された。
そこで三國を身籠り追い出されて帰郷。
つまり親の分からない子供ということだろうか。
その後、たまたま静岡県沼津駅で知り合った育ての親となる人物と結婚し三國が生まれる。
三國は旧制豆陽中学を二年で中退するまで土肥町(現在の伊豆市)で育つ。
20歳となった三國は大阪で働いていたが、徴兵検査の通知が来て故郷の伊豆に戻り合格し、赤紙(召集令状)が届く。
ちなみに本人は、戦争に行きたくない。
戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。
何とか逃げようと考えていたという。
実際、貨物列車に潜り込んで逃亡を図るが数日後、佐賀県で憲兵に捕まり連れ戻されたらしい。
中国大陸の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国のに戻れたのは2、30人だったという。
敗戦時、三國は収容所に入れられる。
妻帯者は早く帰国できると聞き、同じ佐藤姓の女性と偽装結婚。
なんとか日本へ戻り、佐世保から広島を経て大阪に戻り多種多様な職業につく。
1948年、女児を身ごもっていた妻と離婚。
1950年に東銀座を歩いていたところを松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入ったのだそうだ。
ここまででも実に波乱万丈の人生。
(もちろん書けないこと、書ききれない情報も多数)
■「三國連太郎」の由来
さて、本名佐藤 政雄(さとう まさお)さんであるはずが、三國連太郎となった理由。
1951年に木下恵介監督の「善魔」でデビューすることとなる。
ちなみに代役だったらしい。
その時の役名がなんと「三國連太郎」
それをそのまま芸名としたというのだ。
当時の三國の状況を説明するのにちょうどいいエピソードを見つけた。
スカウト時、プロデューサーから「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」と誘われたときの回答が「電車代と飯代を出してくれるなら」だったという。
戦後のどさくさの時分である、誰しも食うのにも困っていたはずだが、スカウトから偶然のデビュー、しかもその役名がそのまま芸名へ。
すべてが偶然に見え、なんて幸運な!といった印象も受けるが、当時はそんなものだったのかもしれない。
それでも、息子であり俳優の佐藤浩市さんがなぜ普通に「佐藤」なのかには疑問が残る。
しかも3番目の妻との間にできた息子さん。
ちなみに結婚は4回です。
三國は戦争体験の話をよくしていたという。
ただ、これについては三國さんが特別だったということではなく、生きて帰国した全ての方に共通するということは私も実体験でよく知っている。
それだけ心に深い傷を負い、戦死した仲間の分まで背負った人生だ。
仕方がないことであろう。
三國は戦後すぐ故郷静岡に帰る途中に、広島で途中下車したというのだ。
そこで原爆で焼け野原になった広島の街の光景を見たという。
しかし何故、途中下車したかについては公の場では話さなかったらしい。
そのウラには男にしか分からないエピソードがあった。
出征の前日、死地へおもむく前に女性を一度でいいから抱いてみたいと広島市内の遊郭で筆下ろしのだそうだ。
三國はその遊女が忘れられず、「どんな卑怯なふるまいをしてもいい、どんな恥をうけても生きて還りたい。もう一度あの女を抱きたい」と心の中に誓って出征したのだという。
つまり、帰還してこの女を探すため、まっすぐ広島へ向かったのだった。
そこまでの話かぁ?と笑われる方も多いかもしれないが、私には実にこの心情が理解できる気がする。
2013年4月14日、東京都稲城市の病院で死去。
「戒名はいらない。三國連太郎のままでいく」と遺言を残し彼は死んでいった。
彼は永遠に偶然つけられた芸名三國連太郎のままだ。
人の一生とはわからないものである。
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