「高島屋」 の由来
「高島屋かつての栄光を振り返る」
ネットのニュースの見出しにこんな記事がありました。
三越と伊勢丹、大丸と松坂屋が合併するまでは、売上高がトップだった高島屋。
高島屋にも統合話はでていましたが、相手が電鉄系百貨店(阪急百貨店と阪神百貨店)ということもあり、呉服店系との体質の違いがネックで破談に。
現在は、大手では数少ない独立系の百貨店となっています。
つまり孤軍奮闘状態。
もちろんこの執筆は隆盛期の勢いを引き合いに出して現在の衰退を状況を憂うといった内容。
■「高島屋」の由来
どうせ創始者が高島さんとかそんな感じでしょう?・・・なんて決め付けはいけません。
高島屋の起こりはもちろん古く1831年。
創業者は、越前・敦賀生まれの飯田新七さんです。
ここまでは「高島」は見当たりませんね。
苦労人の新七さんに更なる苦労が。
奉公していた京都の呉服店が倒産したのです。
ところが真面目で苦労人の(本人の人物像に若干脚色が・・)新七さん、捨てる神あれば拾う神あり。他の呉服店から声がかかります。
その店に奉公しているときに、更なる幸運が。
京都・烏丸で「高島屋」という米穀商を営んでいた飯田儀兵衛さんに目をかけられ、長女と結婚し婿養子に迎えられるのでした。
きました!まさかの大逆転婿養子による由来、「高島屋」。
「高島屋」については、儀兵衛さんが現在の滋賀県高島郡の出身だったことから名づけられたとのことです。
米穀商に婿入りしたわけですが、呉服商をあきらめきれなかった新七さん。
隣家に空き家ができたのを幸い、1831年(天保2年)に古着・木綿商「たかしまや」を始めました。
お店の名前は、婿入り先の屋号から頂戴したわけです。
一からのスタート、金の工面に困り果てましたが、タンスから自分の嫁入り用の着物を商品にと差し出した妻に助けられ古着商「高島屋」がスタートしました。
素晴らしい夫婦愛ですね。
なんだか日本昔話に出てきそうなキャラを想像してしまいます。
当時は天保の改革が始まった頃で厳しい倹約令が施行されていました。
そんな中で、呉服店は軒並み商品が売れずダメージを受けていましたが、逆に古着屋は繁盛。
新七さんは時代の波にのりました。
大きくなった「高島屋」は呉服を扱うようになるまで成長します。
1863年。時は江戸末期。
あの「誠」の隊旗の注文を受けたのはなんと「高島屋」でした。
いかに繁盛していたかの一つの証明になることでしょう。
明治時代になると、パリ万博など国際的な博覧会に意欲的に出品し、数々の賞を受賞。
その功績が認められ、皇居造営の際には調度装飾などの注文を受けるようにもなりました。
1958年には「ニューヨーク高島屋」をオープン。
しかしその勢いは確実に落ちているようです。
1933年、東京・日本橋に地下2階地上7階建ての東京店を新築開店しました。
そのときの宣伝コピーがこれ。
「東京で暑いところ、高島屋を出たところ」
これは前年、大阪に日本初の冷暖房完備の百貨店をつくったことから、東京にもその宣伝文句を使ったのです。
その1933年に建設された日本橋の高島屋は、東京都の歴史的建造物を経て2009年には国の重要文化財になっています。
機械は最新式に変わっても、案内係が手動で操作するエレベーターは昔のままだといいます。
時代は流れます。
当時の最先端が、今は懐かしい匂いを感じさせるのです。
デパートが凍えるほど寒い時代は終わりました。
そのような商売をしていると、モラルに反すると客が敬遠される時代です。
天保の改革が始まった頃の厳しい倹約令しかり、震災後の贅沢禁止令、省エネ厳戒令が今の日本にはしかれています。
何が大切なのでしょう。大量消費の社会でしょうか?
いえ、もうその時代は終わりました。
呉服を売りたかったが古着から始まり、商売上手で時代を見る目のあった新七さんがもし今いたら、「高島屋」は現在どのような商売をしていたでしょう。
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店舗の外にも百貨店の“戦後史”はあった―高島屋海外インテリア事業部隊
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