「たらふく」 の由来
私は腹八分目を心がけている。
そもそも満腹感てのが嫌いで、それによって欲求が満たされるってのがほとんどない。
つまりは食が細いだけだ。
朝ごはんなどはパン一切れで十分だし(ただし飲み物は必須)お昼もカレーなら週の半分を過ごせる。
さすがに晩御飯くらいはしっかりとり、ビール一本くらいはいれるが、夜食などほとんどとらない。
ところが性格上問題が生じることがある。
それは食べ放題である。
私は貧乏性なのだ。
ホテルの朝食や、デパートのイタリアンのブュッフェやしゃぶしゃぶの食べ放題。
他にも最近は女性向けの有機野菜専門の食べ放題とか、小さいところではラーメン屋のご飯、カフェのデザートの食べ放題なんてのも最近は低価格で楽しむことができる。より身近なところでは、ドリンクバーであろう。
冷静に値段や採算なんてものを考えて、材料をみわたすと本当に大丈夫?なんて考えてしまうのも自分にそれほど興味が無いからであろう。
元を取らねば、元を取らねばと無理にかきこんだりして次の日にお腹を壊したり吐き気をもよおすほど食べてしまうこともある。
こればっかりはなんともならないので、自分ではできるだけ避けたいのだが同伴する人の気持ちを考えると辛い。明らかに入りたがっているのに自分がそれほどお腹がすいていない時ってのが一番辛い。
食欲もないのに無理してしまう。
今日も母と案の定そのシュチュエーションとなり、それから数時間も経たったのに一向に腹は減らず、晩飯はもういいかなって状況で今書いている。
それでもって今日のテーマは、「バイキング」ではなく「たらふく」である。
あまりにも食べ過ぎて、満腹を通り過ぎた辺りで朦朧とした意識の中「たらふく」という若干田舎臭く懐かしい言葉が頭に浮かんできた。
きっと魚の「たら」とか「ふぐ」か何かが絡んでいると予想するがお腹が一杯との接点が浮かばない。ここは一つ腹をすかせる為にもがんばってみよう。
■「たらくふ」の由来
「たらふく」は漢字で書くと「鱈腹」と書くのだそう。
やはり魚の「鱈(たら)」でありましたが、「ふく」は「ふぐ」ではなく、お腹を意味しているのだそうです。
つまり「鱈の腹」となります。
鱈という魚はかなりの大食漢だそうで、自分の半分ほどもあるような獲物でも飲み込んでしまうといいます。
食いがいいですね~。羨ましいです。
そのため、お腹が常に出ているため満腹な状況をそのように呼ぶようになったと言います。
ただ他説としては、「鱈腹」は当て字であり、十分になることを意味する「足りる(たりる)」の語句から変化し、「足りている」との意味から来ていてとの説もあるのだそうです。
その場合は、現在では食べ物に関して使われている「たらふく」もその昔は「足りている」という意味でも使っていたのではないかと言われるのだそう。
確かに「足りる」と聞けばそんな気もしてきますが、「たらふく」と並べてみるとちょっと遠い気がしますね。
しかし、よく調べてみると動詞としての「足らふ(たらふ)」に、副詞語尾の「く」がついたものであるという文句を見つけました。
これを改めて並べてみると、少し納得ができるのです。
整理すると、由来は「鱈の腹」で間違いないが、「たらふく」という言葉を「鱈の腹」からとするのは間違いなのだそうです。
「たらふく」という語にたまたま状況の似ている「鱈の腹」をのっけたと考えればいいのでしょうか。
非常にややこしいものです。
もう一つ思い出しました。
私がなぜ腹八分目なのか。
それは食べるときの人間が醜く見えるからなのです。
動物的本能なのか、野生に戻るのかはわかりませんがとにかく人が食べる姿に動物を感じるのです。
それはまるで、映画「千と千尋の神隠し」の主人公の父と母のよう。
二人は食べるうちに止まらなくなり、だんだんとその姿が豚に変化していき人間に戻れなくなるのです。
それはまさに食べ放題で皿を重ねる我々の姿に似ている気がします。
お腹一杯食べることで満たされる人がたくさんいることは理解していますがそれが毎食必要であるとは私は思えません。
太ってお腹が出るのは裕福の象徴かもしれませんが果たしてそれは正しいことなのでしょうか。
世界人口の増加に、旱魃などの異常気象。
食糧不足となる時代はすぐそこまで来ている気がします。
その時に日本の食卓はどう変化するのでしょう。
その頃には「たらふく」という言葉はもう存在しないことでしょう。
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