「預言者」 の由来
地震が多発しています。
富士山も噴火の可能性がでてきました。
しかし、いつ、どこで、どのくらいの規模で、それは誰にも分かりません。
東日本大震災では何日か前に茨城県で鯨がうち上げられたといいます。
これが予兆なのか?必ずしもそうとは言い切れないようです。
最近も東京で、はたまた世界のいくつかの場所でうち上げられていますがそれほど大きな地震は起きてはいないのですから。
そうなると様々な場所で「予言者」が現れます。
その多くは絶えず様々な予言をしておいて、事後報告の「ほ~ら起きただろ」だったりしますが。
「よげん」なんて誰でも出来るんですね。ぶっちゃけ。
私でもできるんです。
な~んてお調子にのっていたら、宗教関係の番組でイスラム教の特集をみたときに大変な間違いに気付いたのです。
「預言者」と「予言者」は違うのだそうです。
皆さんはご存知でしたか?
「旧約聖書」では「預言者」が重要な存在として登場します。
これは決して「予言者」ではないといいます。
「予」の字は豫の省略形で「あらかじめ」という意味を持ち、「将来こういうことが起こるぞ!」と予告する人が「予言者」であり、「預言者」は、神の言葉を「預かり」、これを「人々に伝えることを指名された人」を指しているのです。
預言者(よげんしゃ)は、神と直接接触・交流・対話し、直に聞いた(とされる)神の言葉を人々に伝え、広める者のことを言います。
唯一神との契約を重んじるアブラハムの宗教に特徴的な存在であり、旧約聖書に登場するモーゼなどのヘブライ人(ユダヤ民族)の宗教的指導者たちが、初めの預言者であり、ユダヤ教で認められた預言者たちに続いてその後にあらわれた預言者たちがキリスト教やイスラム教などの基礎を打ち立てていったのでした。
つまり私の考えていたのは、未来を予測する「予言者」であり「預言者」ではないわけです。
たいした違いではないように感じるかもしれませんが、選ばれた者と自薦で立ち上がった者ですから、その差は歴然ではないでしょうか。
■「預言者」の由来
「預言者」はもちろん日本語での呼び名ですので、大元の名前から調べてみると、旧約聖書で預言者に対応する最も一般的なヘブライ語はナービー (nabi) であります。
現代のナビゲーターから考察すると、「先導する」とか「示す」となり遠くない気がしますね。
この語源には様々な説があるそうですが、有力なのはアッカド語起源で「与えられた者」もしくは「語る者」を意味したという説です。
他にも、岩波委員会訳聖書では、ヒッテーフ、(涎を)垂らすの意から出た「ヒトナベー」からの派生であるとしています。
古典ギリシア語においては、プロフェーテース (προφ?τη?, Prophetes)と呼ばれていたそうで、これは本来は「代わりに語る者」の意味であり、この場合は「神の代弁者」の意味を持ちます。
聖書の預言には、未来を対象とするものも少なからずあるため、「前もって語る人」の側面から英語の Prophet やフランス語の Prophete が派生しました。
これらは「神の代弁者」と「未来を語る者」の二通りの意味を持っているそうです。
現在の日本語で は、このProphet に対応して「預言者」と訳しているそうで、これは西洋の宣教師らによってつくられた漢訳聖書の訳語に由来しているそうです。
18世紀書初頭のジャン・バセ訳の「四史攸編」や1813年のロバート・モリソン訳「新遺詔書」では「先見」の訳があてられていましたが、19世紀半ばには現在のように「預言者」の語をあてるようになりました。
ただし、「預」は「豫」(「予」の旧字体)の俗字であり、中国では「預(あらかじ)め語る者」の意味でしかないそうで、日本のように「預」に「預かる」という本来の用法にはなかった意味が加わっていたことから、漢語としての由来を知らぬ者が、神の言葉を「預かる」者が「預言者」、未来や人の運勢などを予め語る者を「予言者」と解釈してしまったようです。
本来は「副詞+動詞」という構造であった「預言」という語が、「動詞+目的語」に置き換えられているので、これは明らかな誤りであると考えることが容易であります。
「神の代弁者」と「未来を語る者」では大きな違いのように感じますが、辞書などでも多く採用されていることや、現在では広く認識されているという事実から専門家の中にも是認する人もいるそうです。
例え誤認であったとしても、それに即した日本人の考え方がそこにあったのでしょう。
お寺では仏の「教え」があり、神社ではすべてのものに「神が宿る」というものが日本人に古くから根付いてきた宗教観であります。
「神の代弁者」や「未来を語る者」は歴史上存在しなかったのではないでしょうか。
空海や最澄にも私の知る限り、そういった肩書きは存在しません。
この国では、先祖は敬うものであり我々を導いてくれるものではないようです。
「よげん」は当たるものばかりではなく、それは有名な「ノストラダムス」であっても「マヤ」であってもありえることなのです。
それでも信じる信じないはあなた次第。
自ら未来を選択する広い自由と、無限の責任が我々日本人にはあるのです。
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