「苛め(いじめ)」 の由来
今日は由来メモでも、この問題を取り上げたいと思います。
いじめ(苛め、虐め、英語でBullying)です。
相手の肉体的・心理的苦しみを快楽的に楽しむことを目的として行われる様々な行為のこと。
実効的に遂行された嗜虐的関与。
こうして書いてみると、非常に残忍・残酷な表現にみえますが、かくいう私も加害者側。
今考えればなぜそんなことをしていたのか・・・
今日はそういった行為の心理に迫れれば成功でしょうか。
「いじめ」について考えてみたらいくつか類似語らしきものがあることに気付きました。
例えば、意地悪(いじわる)。
悪口や陰口を言う、嫌がらせや仲間はずれをするなど、人につらくあたること。
意地悪の意地は仏教で「心の持ちよう」や「気性」をあらわします。
「意地が悪い」つまり「心の持ちようが悪い」「気性が荒い」などで意地悪となりますが、逆に「意地が良い」という言葉も昔はあったのだそうです。
ただ、他人との関わりに重点がおかれるようになると「意地」と「悪」の結びつきのほうが強くなり現代に至ったといいます。
次に「いじける」
恐怖や寒さなどで、ちぢこまって元気がなくなるとか、
ひねくれて、すなおでなくなる、伸び伸びとした感じがしなくなるといった意味。
この言葉については漢字も存在しないようで、もしかしたら日本だけの表現かもしれません。
漢字がないことを理由に、この行動が日本民族の特性の一つを表現していると考えているひともいるようです。
つまり「いじける」なんてのは日本人だけってこと?
それはさておき、どれも「いじめ」に接近した言葉なはずですが、
漢字も違えばひらがなもある。ということは由来も関係ないのでしょうか?
■「いじめ」の由来
「いじめ」の由来は三つから考えるのが妥当なようです。
一つ目は、先ほどの「意地」から、二つ目は、「いじる」から。
三つ目は「囲締(いじめ)」から。
現代の「いじめ」を想像すると、「囲締(いじめ)」が有力なように感じますがいじめの原義には集団による行為といった意味は含まれないそうなので可能性は薄いようです。
「弄る」については、なるほどと思わされましたが同様の「弄ぶ、玩ぶ」(もてあそぶ)「持て遊ぶ」の意味から考えると、(手で持って遊ぶ。いじくる。 心の慰みとして愛する。思いのままに操る。なぶる。)いじめとは近からず遠からず、微妙な距離を感じます。
てことで、「意地」が残りますが、「心の持ちよう」や「気性」で事足りるのか・・・
一つ、私案ながら「める」がもし「滅入る」であると考えたならば「意地」が若干リードするかもしれませんが、やはり断定はできないようです。
最初は、「からかう」を調べようと考えました。
冗談を言ったりいたずらをしたりして、相手を困らせたり、怒らせたりして楽しむこと。
すると、たくさんの同様の言葉がでてきたのです。
例えば「揶揄」
「揶」ヤは、からかう。あざける。「揄」ユも、なぶる。からかう。
二つの漢字、どちらも「からかう」という意味らしく、とてもややこしい言葉。
他にも「嘲る」(あざける)は、人をばかにする。
「嬲る」(なぶる)は、弱い立場の者などを、おもしろ半分に苦しめたり、もてあそんだりする。
からかってばかにする。愚弄する。手でもてあそぶ。いじりまわすなどなど。
それぞれの違いがわからないほど、「いじめ」に関わる言葉には種類が多いのです。
この国にはそれほど様々な「いじめ」が存在するのでしょうか?
すべての由来を調べる気にもなりません。
おもしろ半分に苦しめる・人をばかにする・いじりまわす・相手を困らせたり、怒らせたりして楽しむ・・・
どれも最低ですね。
なぜそのような行動にでるのか?
それは現代人の抱えるストレスが原因なのかもしれません。
やらなければいけないことが多すぎます。
できなければならないことが多すぎます。
反対に自由な時間が少なすぎます。
ストレスで埋め尽くされています。
格差が大きすぎます。
見せかけの平等など必要なのでしょうか?
能力に応じて、やる気に準じて分けるときも必要です。
弱いものは必ずいます。
しかし強いものも必ずいるのです。
「かばう」という正義が消滅しています。
道徳や倫理を軽んじすぎます。
昨今のニュースをみると教える側から歪んでいる気もしてきます。
そして最後に…
裕福すぎるのです。
余裕も原因です。
助け合って暮らしていた時代には「いじめ」などなかったはずです。
経済は伸びたけど、にっぽんじん、きっと心は貧しくなったぞぉ~。
最近のコメント