「走馬灯(そうまとう)」 の由来
人が死ぬときにはその人の人生が短編映画のように流れるのだそうだ。
逆に、そのような現象があらわれ出したときに、自らの死を悟るという逆パターンもあるらしい。
考えただけでゾットするのだけれど、そのような状況をいつも想定して、そういった見えない世界に憧れを抱いてしまうような私のような人間にはいざその時を迎えたとしても、そのような「走馬灯」的な状況は浮かんでこないのだろうと思われる。
人間なんてそんなものだ。
■「走馬灯」の由来
「走る馬の灯り」そのような漢字を書くものだから更なる誤解を招くのかもしれない。
走馬灯、もしくは走馬燈(そうまとう)とは、実は内外二重の枠を持ち影絵が回転しながら写るように細工された灯籠(灯篭)の一種のことなのだそうだ。
つまり回り灯籠のことで、その姿はお盆などに仏壇の前に飾ってあるあれを想像すればいい。
その歴史は江戸中期からで、最初は夏の夜の娯楽として登場したのだそうだ。
その仕組みは、基本的に影絵芝居に似ている。
光源は江戸時代だから当然蝋燭で、内側の枠の軸に人や馬の絵を切り抜いた紙を貼る。
その影絵が勝手に動くその仕組みが素晴らしい。
動くのは、内側の枠の構造に工夫があるからだそうで、枠に取り付けられた軸の上に風車が付けられており蝋燭の熱が空気を暖めて起こる煙突効果による上昇気流を受けて回転する仕掛け。
人が死に際に体験するといわれる一生の記憶のリピート現象の表現として用いられるようになったのは近年である。
走馬灯という言葉が、そういった現象のことのみをさすと勘違いしている人が多いのが現状。
実物を目にする機会が少なくなっているのがそういった誤用を招いているらしいが、
そういった目まぐるしく回転する絵の様子に見立てて、今の「走馬灯」の用い方が生まれたと考えると由来としては納得である。
その用い方であるが、「走馬灯が走る」とか「走馬灯が起こる」という表現は正しくないようだ。
「走馬灯のように目の前に浮かぶ」とか「走馬灯のように駆け巡る思い出・過去の映像」といった用い方が正しい。
走馬灯現象とか走馬灯体験と表現するのがより適切なわけ。
誤用に注意!と喚起を促す私も間違っていたわけなのだが・・・
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